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「ま~る」(旧「NPO配りの会」)犯罪を経験した当事者と支援者でつくる自助グループ

ま~る(旧「配りの会」)は、刑務所出所者など犯罪を経験した当事者と、産業カウンセラー、家族相談士、精神保健福祉士、社会福祉士、弁護士などでつくる、自助グループ活動を行っているNPOです。2011年設立、刑務所から社会へ戻る方に寄り添う活動をしています。

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おしゃべり会8/16感想4

2015/8/19(水)「ま〜るプログラム5」

「自分のまわりのある近しい人々を図にしましょう。」
小竹広子さんはそのようなことを言いました。

そうして、私達は「ソーシャルアトム/社会的最小単位」を
白い紙に書き始めました。

数年前にも、私はヒロコさんと一緒にこれを書いたことがあります。
今回書いたものは、前回と違っていました。

前回のものは、
母と父と私がくっつきあって、黒々としたギザギザの線はあるし、
個人の円も大きく暑苦しく、見てるだけで息苦しそうな図でした。

20150902113633493.jpg

2015090211364408a.jpg

ちかごろ私は
「子供時代が完全に終わった」などと、豪語しておりますが、
なんだか、自分の特質が日々明確っている実感があります。

数十年前に母が亡くなったの続き、今年の春に父も他界して、
親の統治領から、私の自治区へ移動したような、内面の体験をしています。

「完全なる自由」というものがあるのなら、その片鱗が
もたらされたような感覚で、体も頭も軽くなった感じがします。

大げさかしら。

さて、今回私の書いた「現在の私」のソーシャルアトムには、
中央には「私」しか存在せず、
そのまわりの人々は遠くにあるか、境界線の向うで、
その「私」は、その円の輪郭が実線ではなく、点線になっていました。

2015090211365799b.jpg

「私は私だぞ!誰にも邪魔させないぞ!!!
親や他人や社会に領海侵犯されないよう、
自分との境界線をしっかり引こう!」
(↑恐れからくる「いわゆる自立」のこと)

というような様々は努力がありました。
この世から親がいなくなってみたら・・・

まあ、私が誰にも邪魔されず(邪魔せず)、
世界の真ん中にふんわりと存在している!

それを発見して、うきうきしました。

私の世界の全体性を取り戻したような、
長い旅の後、自分の故郷に帰ってこれたような、
まわりにあるもの全部と仲直りしたような、

不思議な幸福感に浸っています。

社会の中の人間関係の上の「私の役割」の輪郭はぼやけて、
反対に、役割を取り払った、「私の本質」(というのでしょうか)が、
はっきりしたような、感じを持っています。

幼い「自文化中心主義」的な感覚なのかな?
と自分に聞いてみれば、そうでもなく、

自文化(私の文化)をより尊重して展開して行くけれど、
他文化(私とは違う文化/習慣/常識を持つ他者)も
自文化同様に、本人には価値があると知る、ということのようです。

子供時代が終わった(と言い放っている)今、

これからはさらに実直に自分を表現するつもりで、
それと同時に、
他者のどんな表現(例えば犯罪/問題行動/症状/状態)も、
一度手にとって、心の目でじっくり見てみたい、
ということなのかもしれません。

自分の社会的な顔の輪郭が、点線になったと同時に、
他者の社会的な顔の輪郭も、点線になったように、
私は、感じているのかもしれません。

目の前のこの人。

今生では、例えば、日本人で、男性で、この地に生まれ、
こういう父母のもとに生まれ、こういう村で、
こんな家庭でこんな出来事があり、
その後、こういう過程をたどり、こういうことをして、
現在こういう人として人々に認識されるようになった。

それは、彼の真実の一面であり、
同時に、人の輪郭のいち形態でもある、という感じです。

その上で、彼の本質(今は明確には現れていないかもしれない)
は、なんなのだろう、とちょっと興味があるな〜
(てんてんてん・・・点線の中をちらり)

「この子は、父にこうされて、母にこうされたから、こうなった」
という(古典的)心理学的説明は、いろんな場面で採用されてきました。
自称心理学オタクの私は、
それにも正統な真実がないわけではない、と思っています。

環境に適応し、想定される未来の損失を避けるため、
過去の情報からより安全な行動の選択肢を抽出し、
その作業を繰り返し行い、体系化し習慣化し、

ヒト科ヒトは、個体数を増やしてきました。

それが大脳新皮質の機能で、私達はそう創られています。

「心的外傷後ストレス障害」や「不安障害」と呼ばれるような反応、
個人の心理的歴史である「心の傷」とその周辺にあるカタマリに、
人生を歩む過程で、出会うことになるかもしれません、
心理学の教科書に書いてるように。

傷の下には、生きている皮膚組織があると、私達は知っています。

自分は体を持っていて、その皮膚の表面の一部に傷があり、
その内側には若い組織が控えていて、
その組織は自分体の一部であり、
それは摂取する酸素や食べ物から作られ、
さらにそれは自分のまわりにある、環境(地球と宇宙)からやってきます。

多分、しばらく地球上のある場所(自分にとっての危険な環境)にいて、
私は無垢な存在で、無防備にこの傷を得ました。
この傷は、今私を囲む環境が提供するもので、
自然に治癒していくということが、傷を見ていると分かります。

私にとって大切なことは何か、嫌なことな何か、
私は何に傷ついたと感じるのか、何を信じているのか、
傷からいろいろ分かるものだ、と感心します。(情報の宝庫)

ソーシャルアトム「6歳の自分」と「今の自分」を書いてみて、
前回の物と違ったものになったものを見て、

自我同一性は、可塑的だ、と思いました。つまり

「自分が今自分だと思っている自分」
(過去にあれこれがあったから今、こうなっている)は、
ここでこれで固まってしまうのではなく、これから変わるし、
なんと、自分の過去を思う感情や事実も変ってしまうんだなーと。

私の物語にしがみついて
(お母さんのせいで、お父さんのせいで、社会のせいで!)
若い私は随分エネルギーを発散してきましたが
(おかげでよく育ちました、(・ω≦) テヘペロ)、

当たり散らせる人々が、本当に、今生からいなくなると、

あーら、不思議。

その物語も一緒に死んでしまったようです。
そして、静寂がやってきました。

残っているものがあるのだとしたら、
それは私の本質的なもので、親にもらったというよりは、
私が生まれる時に持ってきたものなのでしょう。

最近の心理学はその辺を上手に扱っていて、
(氏と育ちだけでなく、魂も扱う。
症状だけでなく、人や人間関係ををひとつの系として全体を見る)
やっと私もトレンドに追い付いたのかもしれませんね。

20150821213713db8.jpg

「ソーシャルアトム/社会的最小単位」
を再び体験して、思いついたことを取りとめもなく書きました。
小竹広子さん、ありがとう(^_^)

お読みいただきありがとうございました。
記事 ゆうこりん
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